108の鐘108の鐘

 13、弘法大師との交際

 大師とともに平安初期、仏教会の二大明星と謳(うた)われる弘法大師(774〜835)は、大師と同時の延暦23年に入唐留学されているが、両者の交際は、大同4年(809)に、弘法大師が叡山に登り来られたのに始まるという。
 その後しばらく、緊密な交際が続けられたが、弘法大師の真言密教至上主義は、伝教大師の法華一乗の立場とは、根本的にあい容れないものであった。
 14、東国教化と広済・広拯の建立

 弘仁6年(814)の秋には東国におもむき、下野(栃木県)、上野(群馬県)の地に、それぞれ千部の法華経を収めた宝塔を造立し、これを東国の拠点とされた。
 また美濃(岐阜県)より信濃(長野県)に通ずるけわしい三坂(みさか)峠の両ふもとに広済(こうさい)・広拯(こうじょう)の二院を建てて無料宿泊所として旅人の便をはかり、さらに道をなおし、橋をかけ、人々のために奉仕された。
 15、奈良仏教との対決

 天台宗の基本である法華経は、人がすべてみな、仏の子としての普遍的尊厳性(平等説)をもっていることを強調する。しかし、奈良仏教を代表する法相宗は、先天的差別説をとなえ、法華経は権(かり)の方便説にすぎないと主張するものであった。
 徳一法師をはじめとする南都の学匠は、この法相宗の立場より、天台教学にたつ大師を攻撃したので、大師は「守護国界章(しゅごかっかいしょう)」等の大著をあらわいて、それらを論破された。
 16、学生式の制定と大乗戒の独立運動

 弘仁9年(819)59才の春、大師はついに、みずから小乗の戒律をすて、もっぱら大乗戒によることを宣言された。
 続いて「一隅を照らす」国法的人材の養成を眼目とする『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を定め、比叡山の学生の行動基準を、法華経の精神にもとづく自利々他(じりりた)の大乗戒に求めることとされた。
 この大胆な革新的主張は南都旧仏教こぞっての激しい反対にあい、そこで大師は畢生(ひっせい)の努力を傾けて『顕戒論』等を撰述し大乗戒の独立を叫ばれた。
 17、ご入滅

 法のため身命をすててのご活躍の無理が重なり、しだいに健康を害され、弘仁13年(822)には、ついに不治の病の床に臥された。
 やがて、「わが志を述べよ」、「童子を打つことなかれ」等のお言葉を遺して、しずかに56年にわたる偉大な生涯をおえられた。ときに6月4日辰の刻(午前8時頃)のことであった。
 おりから比叡の山は、」紫の雲に覆われたと伝える。
 18、滅後の余光

 大師入滅の翌弘仁14年(823)3月26日には、大師の最大の理解者であり、かつ、天台宗を勅許された桓武天皇ゆかりの年号を寺号とする勅額が下され、比叡山寺を改め延暦寺を称することとなった。
 くだって45年後の貞観8年(866)には、ときの清和天皇より、伝教大師の諡(おくりな)を賜った。
 大師の開かれた比叡山からは、後世、鎌倉新仏教各宗の祖師を輩出し、比叡山は実に日本仏教の母山として栄え、大師の余光は、滅後1200年の今日、なお燦然(さんぜん)と輝いているのである。