氷上郡天台宗寺院会報
(どうしん)
・・・第6号・・・



 両親の子どもで良かった

親子の絆
 親と子とは切っても切れない縁で結ばれています。親が子を思う心情こそ、父母、祖父母、そして顔も知らないご先祖様から引き継がれた尊いものなのです。
 父母恩重経の中で『父に慈恩あり、母に悲恩あり』と説かれている心情です。 慈恩、悲恩とは慈悲のことで、たとえ裏切られても、辛い仕打ちにあっても、子孫の幸せを祈り続ける心のことです。

不思議な縁
 さらに『そのゆえは、人のこの世に生まるるは宿業を因として、父母を縁とせり。父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず』とあります。 もしも、父と母がいなければ、今の私は存在しません。祖父母も曾祖父母も先祖代々すべての人々が揃っていなければ今の私はないのです。不思議な縁の重なりです。
 人がこの世に生まれて来るのは、この世にどうしても必要な存在だという仏さまとの尊い約束によって、父母の命を拠りどころとして生まれてくるのです。

口うるさい幸せ
 また『己れ生ある間は子の身に代わらんことを念い、己れ死に去りて後には子の身を護らんことを願う』とあります。
 親は、少しでも子どもが幸せになることを願い、幸せであれば、我がことのように喜ぶのではないでしょうか。
 時にはこれが口うるさいと感じてしまうことが多々あります。ご飯の食べ方、ものの言い方など口うるさく注意されるものです。しかし、これは親にしっかり愛されている証拠なのです。

 そして『父に非ざれば火の身を焼くことを知らず。母に非ざれば刀の指を堕すことを知らず…。父に非ざれば毒の命を堕すことを知らず。母に非ざれば、薬の病を救うことを知らず』とあります。火は危険だけれども大切。刃物は使い方によって人を傷つける道具となる。毒は甘いけれども怖い。薬は苦いけれども命を救ってくれる。
 私たちが、まともに生きていくためには、親が人間としての基本的なマナーや智慧を伝えなければならないのです。口うるさいことは贅沢極まりないことなのです。感謝し、合掌する気持ちを持たなければなりません。

感謝の気持ち
 やがて「孝行したい時分に親はなし」「石に蒲団は着せられぬ」という後悔の念を抱く頃には、亡父や亡母になっている訳です。
 こうした気持ちは、誰でも持っています。親のお陰があったればこそ今の私たちがあるのだという自覚を忘れてはなりません。親が子どもに「お前が私たちの子どもで本当によかった」、子どもが親に「お父さん、お母さんの子どもでよかった」と思える関係で人生を歩みたいものです。



  

 特集 あなたの中の仏に会いに

開宗千二百年を迎えて

 天台宗は平成十八年一月二十六日に開宗千二百年を迎えます。
 千二百年前、伝教大師最澄さまは、真の仏教を日本に広めるため、比叡山で血のにじむ修行を重ね、また遠く中国に渡って天台教学を極められました。そして天台宗を開くことを朝廷に請願。延暦二十五年(八〇六)一月二十六日、桓武天皇から開宗を認める勅許が下りました。天台宗が国家公認になったのです。

 最澄さまの願いは、単に新しい宗派を作ることではなく、日本中の仏教宗派が協力して人々を導いていこうということでした。「一目の羅、鳥を得ることあたわず、一両の宗、何ぞ普く汲むに足らん」。つまり「一目の網
では鳥を捕まえることが出来ないように、一つや二つの宗ではどうして全ての人々を救うことが出来ようか」と述べておられます。「同じ大きな目的のために、それぞれの価値を認めて共存する」というこの考え方は、混迷する現代にも通用するキーワードではないでしょうか。

 今こそ、今日の社会を思い、現代に生きる全ての人々を思い、社会の浄化の実現のために行動しなくてはなりません。そのために天台宗檀信徒の方々のみならず、多くの皆さまに、心の中の仏を自覚するための行動を呼びかけます。

授戒は人生の道標
 皆さんの中の仏を自覚する手がかりが円頓授戒です。この授戒によって仏の光があなたの身体の中に入り、自己本来の仏の心(仏性)を目覚めさせます。
 授戒、すなわち「すべての善悪を見極めることができる心(戒)を授かる」ことによって、皆さんは仏さまの真の子どもとして、また最澄さまと同じ心を持って行動する菩薩となるのです。

 情報が社会に溢れ、価値観が実に多様化している現代、私たちは常に不安に駆られています。善悪を見極め、幸せな人生を歩む道標が必要です。それを外に求めようとしても、なかなか得られないでしょう。
 答えは、皆さんの内に秘められています。そのことを自覚するために、心の中にある仏と出会う第一歩、それが授戒なのです。

是非あなたも授戒を
  天台宗では開宗千二百年を迎え「あなたの中の仏に会いに」をスローガンに檀信徒総授戒を奨励しています。第六部(氷上郡)寺院所属の檀信徒を対象に、次のとおり授戒会を行います。是非とも進んでご参加下さいますようおすすめします。
 ◆会 場 = あすかホール(太子町)
 ◆日 時 = 平成16年9月18日 9時受付
 ◆費 用 = 一〇、〇〇〇円およびバス代
 ◆交 通 = 6部で往復のバスを用意
  ※詳しくは各寺院より案内を致します。



  
 
  仏教行事の解説 ―5― 山 家 会

 
山家会とは、山家大師、すなわち伝教大師最澄さま(=写真)に対する報恩感謝のために、主にそのご命日を中心に行われる法要のことです。
「山家」とは、最澄さまが天台宗を呼ぶ場合に用いられた言葉で、山で修行する者の意味です。例えば、『山家学生式』とは、最澄さまが天台宗の学生を養成する規則について書かれたものです。そして後の世においては最澄さまのことを伝教大師と呼ぶと共に、山家大師とも呼ぶようになりました。

 比叡山延暦寺では、毎月四日に伝教講、六月四日の祥当命日には長講会と呼ばれる法要が、最澄さまのご廟のある浄土院で行われます。また、長講会の前日には大講堂で伝教大師御影供法要が、四月二十日、二十一日にも最澄さまに対する報恩の法要が営まれます。

 丹波地方においては、六月四日に各寺院を会場持ち回りで山家会が行われています。その際には最澄さまのお軸を掛けて伝教大師和讃を唱え、宗祖への報恩謝徳の誠を尽くし、その遺訓を再確認します。
 最澄さまは旧来の制度や教えに捉われることなく、一部の人の仏教から、分け隔てなく全ての人々と共に悟りへと進む仏教に、その内容を発展させるために身命をいとわずひたむきに生涯をささげられました。

 残された多くの教えとその精神は、今日においても色あせることなく私達の人生の大切な道標といえるでしょう。



  

  山寺説法 E 不二の教え 天台宗布教師 速 水 亘 雄

 
「不二」の一般的な意味は、二つとない。つまり一つしかなく大変優れているの意味です。仏教では、「二つではない」です。二つあって、それが二つでない…?。

 私たちは資本主義の社会の中で、すべての物事を相対的に捉まえたり、考えるようになってしまいました。相対的な見方や考え方をすると、二つのものを比較し、差別し、良いことと悪いことに分けて見てしまいます。損得や勝ち負け、綺麗と汚い、病気と健康、若者と老人などと比較してしまい、どうしても好き嫌いが生じます。

 仏教の考え方は、二つのものの違いを認めながら比較をしません。「不二の教え」は、執われない空の思想の実践です。生と死、煩悩とさとり、というふうに別々に見ず、正しくその違いを知って、さらにそのいずれにも執着しない心の状態のことです。たとえば、病気のときは、健康との違いをよく知り、病気に徹し、健康なときに分からなかった「生きる」ことの意味を学ぶなど…。

 「不二の教え」の生き方は、自分にとって良いとき悪いときを区別せず「今」を最も大切にしながら生きることです。



  



 我が家は天台宗 第6話 天台宗が公認                                    
    

 滞唐一年で帰国された最澄さまは、時の桓武天皇に大歓迎を受け、翌延暦二十五年に念願の「天台宗」の国家公認を与えられました。つまり、南都(奈良)の諸宗と堂々と肩を並べたことになります。そして、弟子たちと共に「比叡山延暦寺」の基礎固めを開始されます。

 ところが、不運にも最大の理解者であり外護者であった桓武天皇の崩御を契機に、かねてより対立のあった南都諸宗から激しい攻撃を浴びせられることになり困難な時代が続きます。また空海(弘法大師)との絶交もこの頃のことです。

 そうした苦難の中に在りながらも最澄さまはなお精力的に東国伝道の旅に出掛けられ、さらに諸宗と論争を繰り返しながら、比叡山に独自の大乗戒壇を設立すべく奔走、努力されました。
 しかし、悲願の大乗戒壇設立が天皇より認められたのは、五十六歳の生涯を閉じられたそのわずか一週間後のことでした。

 ちなみに「伝教大師」の号が贈られたのは、それから四十四年後のことで、これが日本の大師号の初めです。



  

 寺院さんぽ ―E―照月山  桂谷寺
  氷上郡春日町野上野1019
  大 瀧 孝 雄 住職

 舞鶴若狭自動車道を北進し春日ICにさしかかると、右手前方の小高い山の中腹に抱かれて、白い土塀と真新しい建物が目を引く。照月山桂谷寺である。
 現在の建物は平成十四年に寺檀一致の努力で落慶を迎えたもの。本尊は阿弥陀如来で、国領地区や黒井地区などが広く見渡せる眺望の良い境内には、弁天堂・観音堂・赤山明神社をはじめ「丹波七福神」のひとつ、福禄寿などが祀られる。ご詠歌には、「照月の 法のみ山に鐘音なりて 無量の光里をつつまん」
と詠まれている。

   

 仏 教Q & A C

   
 Q.お参りの時の合掌の意味は?

 
A.私たちは、お寺や仏壇にお参りする時に必ず合掌します。これは右の手を仏さま、左の手を私たちに例えて、この二つの手を合わせることで、仏さまや菩薩さまと、それを拝む自分とが一体的になるという意味があるからです。
 合掌は胸の前で手を合わせますが、あまり力まないように自然に合わせます。この時、指が離れないように注意します。合掌のお姿の仏さまを思い出されると良いでしょう。
 乱れがちな心を一つにして、二つの手を合わせて心静かに仏さまを拝み、祈りを捧げることが最も大切な心構えです。



   

 編集後記
 「犯罪の都市化が丹波で進行中」という新聞の見出しが目につきました。車上狙いやひったくりの事件が今年に入って急増しており、犯罪の都市型化が進んでいるというのです。
 最近の報道では、信じ難い事件が毎日のように流れてきます。今までなら、どこか都会の話だと他人事のように思えていましたが、そのようなことが言えなくなってきているのです。
 氷上郡は、今から『丹波市』として新しく出発しようとしています。私たちは新しさや便利さ、情報社会の中で、心を失い過ぎて来たのではないでしょうか。
 地に足をつけて、子どもたちに胸を張って残せる『丹波市』を目指していきたいものです。