氷上郡天台宗寺院会報
(どうしん)
・・・第8号・・・


 
【山寺説法 G 】
『子育てに思う』天台宗布教師 荒樋秀晃
◎食べ物に対する感謝の念
 私たちは三度三度ご飯を食べます。この習慣は国によって、また時代によって違うと思います。しかし生活をする以上、衣・食・住は大切です。着る物があり、食べる物があり、住まいがある。これが最低の条件です。
 今の日本では、通常の生活で衣食住に困っている人は殆どありません。しかし、先の台風や地震の被災地では、一瞬にして衣食住を奪われてしまいました。また、新聞やテレビで困難な境遇にある難民の姿が報道されますが、自分の国では生活ができず、新天地を求めてさすらう姿は、本当に可哀想だと思います。
 例えボロでも着る物があり、雨の漏らない家があり、粗末でも三度の食事ができるということは最高の幸せなのです。
 ある時、私はレストランに入り、ふと横のテーブルに目をやると、二組の母子がいて、母親同士が一生懸命に話に花を咲かせておりました。随分喋った後、さあ帰ろうと子どもの方を見ますと、未だほとんど食べずに遊んでいます。しかし一人の母親が「さっさと何で食べへんの。嫌やったら残しておきなさい」と、子どもの手を引っ張って出て行きました。
 この時ほど私は「勿体ないな〜」と思ったことはありません。この母親たちを一方的に攻めるのはどうかとは思いますが、全く食べ物に対する感謝の念がありません。
 「我々人間の勝手な都合で、お米にしろ肉や魚に至るまで、物の大切な命をいただいているんだ」ということを判ってほしいと思います。
◎他人のために生きている
 今の子どもは好き嫌いが激しいと言われます。最近は「今夜は何が食べたい?」と子どもに相談して献立を決める家庭が多いと聞きます。当然、子どもは好きな物ばかり言いますね。親が何でも子どもの意のままにしてしまう。これが今の人間社会に繋がって行くのでしょうか。
 教育について、私はどうこう言う資格はありませんが、岩手県出身の三好京三という小学校の先生だった方があります。『子育てごっこ』という小説を書いて直木賞をもらった人です。
 この人が、千尋さんという十二歳のお嬢さんへ「二十一世紀への手紙」を書きました。その手紙の一番おしまいに「人間はね、他人のために生きているのです」と書いています。これは、なかなか言えないことですね。今の学校教育の在り方は随分見直されては来ましたが、未だに「それ塾だ、それ一流高校、一流大学、一流会社」と、子どもを包む周囲の環境は、他人よりも自分だけの幸せを求める風潮が強いように思われます。
 しかし三好先生は「人間はね、他人のために生きているのです」とはっきり言っています。これは宗教です。まさに仏教の境地です。やはり、こういう考えの土台の上に本当の生活があるのではないかと思います。



『特別授戒会で仏教徒の生き方誓う』


◎氷上郡から250名が受戒
 九月十六日から十八日までの三日間にわたり、太子町あすかホールを会場に兵庫県下の天台宗檀信徒を対象とする「特別授戒会」が行われた。
 仏教徒としての生活の基本は「悪いことはせず善い行いに努め、常に自らの心を磨いて行く」ことである。こうした生き方をするための指針が戒であり、誓いを立てる儀式が授戒会なのである。
 僧侶の場合は「得度授戒」というものを受けるのであるが、この在家向け儀式が今回の「特別授戒会」で、別名を「在家得度」とも言われる。
 この儀式は、お釈迦さまから脈々と正当の法を受け継ぐ伝戒和上と呼ばれる高僧しか執り行えず本来は比叡山以外で執行されることは希である。しかし、天台宗が開かれて一千二百年を迎えるのを期に、より多くの檀信徒の方々に真の仏教徒としての自覚と自信を持ってほしいと、特別に実施されたもの。期間中、県下二千名の檀信徒が参加し、氷上郡からも約二百五十名が受戒した。

◎会場は極楽浄土を演出
 氷上郡の檀信徒が受戒したのは九月十八日で、バス六台に分乗して九時三十分にあすかホールへ到着。早速、揃いの帷子に半袈裟・念珠という姿で会場入り口に進むと、僧侶から洒水と塗香が授けられた。洒水と塗香は、心身を清めるための浄水と体に塗るお香である。
 会場内は荘厳具とライティングで、極楽浄土さながらの厳粛さが漂う。
 そして、説戒師を勤める白毫寺名誉住職の荒樋秀晃大僧正より、授戒の意義と心構えを聞き儀式に入る準備は整った。

◎体内に入る五戒の仏光
 天台声明の調べが会場内に響き渡る中、いよいよ天台座主猊下代理として伝戒和上を勤められる三千院門跡門主の小堀光詮探題大僧正による授戒会が始まった。
 戒を授かるための事前作法に続いて、参加者たちは順次ステージ上に進み、剃髪の儀式であるお剃刀を受けると共に、仏弟子となることを誓った証として、仏舎利を頭に当てていただいた。そして、本題の授戒の儀式へと入っていった。

 授戒会によって授けられる戒律は、次の五戒である。 
@不殺生戒…無駄な殺生はせず、生命を大切にし、むしろ他の生命を生かす努力をする。
A不偸盗戒…他人の物は決して盗まず、むしろ他のために布施の努力 をする。
B不邪婬戒…男女の関係を誤らず、むしろ夫婦仲良く幸せな家庭を築き、社会に貢献する。
C不妄語戒…決して嘘を言って人を惑わせることはせず、むしろ正しいことを進んで話す。
D不邪見戒…決して物事に対して偏見を持って見たり欲の心で見たりせず、むしろ正しい見方と理解に努める。

 この一つひとつについて伝戒和上から「よく保や否や」と三度にわたって確認があり、参加者たちはその都度、「よく保つ」と大きな声で返答。そして、鐘が三回鳴らされ、この戒律は仏さまの光となって参加者の体の中に入っていった。

◎忘己利他の実践を心に
 この授戒会を終えた一人ひとりに、仏弟子としての名前である法名を書いた「度牒」、お釈迦さまから法が引き継がれたことを表す「血脈」、仏の加護をいただくための「念持仏」が授けられた。参加者たちは、改めて受戒の悦びに浸ると共に、仏教徒として忘己利他の生活を実践して行くことを心に誓っていた。

      


【感想文】
『お授戒に参加して』  蓮華寺檀徒 高 見 晴 夫
 九月十八日、天台宗開宗千二百年大法会慶讃特別授戒会に蓮華寺檀徒四十二名と共に参加。九時半に到着し、直ちに洒水・塗香を受けて入堂。これより戒弟としての作法で開式を待つ。まさか授戒会が、これほど厳粛なものとは想像していなかったもので、会場での粛然とした空気に気を呑まれ、これこそ本物の儀式と実感した。
 説戒に続いて、いよいよ天台座主猊下代理の三千院門主・小堀光詮戒和上より戒弟代表が皆に代わって戒を授けられた。続いて一人ひとりが壇上に進んでお剃刀・仏舎利・念持仏等をいただき、ここに生まれ変わって入仏の儀式を終えた次第である。この間、震えるような気持ちであったことを今も鮮明に覚えている。
 式後、「晴晃」の法名を授与され、禿頭の己に相応しいと苦笑したが、『広辞林』によれば「晃」とは「あきら」「あきらか」の意があり、頭脳明晰ならざる自分には過ぎたるものと恐縮すると共に今日の授戒を得て入仏した機会を、今度は人々に対して明るい心で接し、師表として行動してもらいたいとの願いをいただいたものと自戒した次第である。
 世相は正に混沌の最中にある。宗教の心こそが救いであることを悟り、一心に仏道に帰依して行きたいと思う今日この頃である。



『天台宗全国一斉托鉢を実施しました』
 天台宗では、毎年12月1日を「全国一斉托鉢の日」と定め、「地球へ慈愛(あい)の灯を!」をスローガンに掲げて募金活動を展開しています。丹波市の天台宗寺院でも12月4日に春日町・常樂寺の檀家様を中心に、各寺院総代様と共に実施。寄せられた浄財は丹波市の社会福祉協議会と天台宗・一隅を照らす運動総本部の地球救援募金事務局に寄託致しましたことをご報告し、御礼に代えさせていただきます。




【仏教行事の解説―7―】
『お正月』
 お正月というと、気持ちも新たに「初詣から」という方が多いことでしょう。
 この頃はあまり言われなくなりましたが、以前は「除夜詣」といって大晦日にお参りし、一旦家に帰り、改めて出直して「元旦詣」をする風習もありました。
 現在のように、年末恒例のテレビ番組を見終わったとたんにどっと繰り出し、お寺の境内で「除夜の鐘」を聞き、そのままその場で新年を迎えるという、「略式」ともいえる形になったのは、そう古いことではありません。
 さて、「初詣」は「初参り」ともいいますが、各地の寺院では、お正月に「修正会」が営まれます。
 修正会とは、前年に犯した罪を悔い改め、その年に天災や戦災が起こらぬよう、人々が安心して暮らせるように祈る法要です。その起源は、八世紀半ば聖武天皇が諸国の国分寺で「悔過法」を行わせたことにまで遡るといいます。
 「悔過法」は読んで字の如く「過ちを悔いるための法要」のことですから、仏教徒のスタートはまず「自己反省」からということになるでしょう。
 自らを省みて、年の初めにあなたは何を心に誓うのでしょうか。



【寺院さんぽ―G―】

『我浄山  常樂寺 』丹波市春日町鹿場795番地板 倉 宥 海 住職
 丹波比叡といわれる神池寺の南側(春日町)山麓に位置する当山。寛永四年(一六二七)に僧賢秀が中興。現在の本堂は、文化二年(一八〇五)建立された。
 本尊の木造・阿弥陀如来座像は、明和七年(一七七〇)に篠山城主であった下野守の奥方が願主となり作られた。穏やかでふくよかなご尊顔である。台座から天蓋まで二二六p。
 境内には、如意輪観音を祀る観音堂、鎮守三宝荒神堂、鐘楼堂、位牌堂がある。
 周囲の自然と調和した古い寺院の佇まいを見せている。





【身近な仏教用語C】

『挨拶(あいさつ)』
 「挨拶」。難しい漢字ですね。それもそのはず、「挨拶」は仏教の言葉です。
 「挨」は、師僧が修行中の弟子の側へ行き「どうだ、修行はだいぶ進んだか?」と尋ねることです。これに対して弟子が「いいえ、まだまだです」とか、「はい、お陰さまで」とか正直に答えること が「拶」です。つまり「挨拶」は、お互いに寄り合って、心を開いて正直に気安く声を掛け合うことなのです。
 ここで挨拶の心得を一つ。挨拶は、「ア」かるく、「イ」ちばんに、「サ」りげなく、「ツ」づけることが大切です。



【編集後記】
 『俺がおれがの“我 ”を捨てて、お陰おかげの“下 ”に生きよ、懺
悔さんげの“悔 ”に生きよ』と言ったのは、確か良寛和尚だったと思います。
 氷上郡の六町が合併し、十一月一日をもっていよいよ『丹波市』が発足しました。
 この丹波市の発展を考えた時、旧町意識をなくすことが大切だと思います。名前だけでなく、真の合併を目指して住民の気持ちを一つにして行かなければなりません。
 日々の生活の中で、争いや嫉みの心を無くし、お互いが認め合い尊重し合える幸せな生活を、新生『丹波市』で築いて行きたいものです。