『願文

第1話  「世の無常」

ゆうゆう   さんがい   もっぱ      やすき      じょうじょう   ししょう   だだうれ       たの
悠々たる三界は、純ら苦にして安きことなく、擾々たる四生は、唯 患いにして楽しからず。
むに    ひしさ     かく     じそん   つきいま          さんさい あやう           ごじょく
牟尼の日久しく隠れて、慈尊の月未だ照らさず。三災の危きに近づき、五濁の深きに沈む。
            ふうみょうたも  がた  ろたい  きえ  やす  そうどうたの          いえど  しか  ろうしょうはっこつ
しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみなしと雖も、然も老少白骨を
さん  さら    どしつ くら                  しか  きせんこんぱく   あらそ やど
散じ曝し、土室闇くせましと雖も、而も貴賎魂魄を争い宿す。
現代語訳

憂いに満ちている迷いの現代は、ただ苦しみばかりで心安らぐことはない。さわぎ乱れている人生は、ただ思い悩むことばかりで楽しいことはない。

釈迦牟尼の太陽は久しい前に没してしまい、釈尊の次にこの世を照らすべき弥勒菩薩の月は、未だにこの世をてらしていない。
この世は、世の末に起こる火災・水災・風災の三種の災難に近づいており、現に、五種類の濁りの中に落ち込んでいる。

その上、風のように早く過ぎ去る命は、いつまでも保つことが困難で、朝露のようにはかない身体は消え去りやすい。
楽しみがないのに、葬儀場に老いも若きも白骨を散じさらし、暗く狭いのに、墓室に裕福な人も貧しい人も先を争うように魂(たましい)を宿らせている。

 

『願文』は、まず始めに、この世が無常であり、自分の思うようにならない理不尽で苦悩の世界であると捉えています。
苦悩する人々を救うための教えを示してくれたお釈迦様はとっくの昔に亡くなってしまい、次に仏となる弥勒菩薩もまだ現れていません。
つまり、今は仏さんの教えは残っているが、仏さんはいない世の中なのです。

仏教の悲観的歴史観に「末法思想-まっぽうしそう」というものがあります。

これは、お釈迦様が入滅して時代が下るにつれてその教えの影響力がだんだん衰え、それと同時に時代全体の混乱と衰退が起こり、ついには完全な破壊が到来するというものです。

お釈迦様が亡くなった後500年(一説には1000年)は、教えと修行と悟りがともに備わっている正法の時代。その後1000年(一説には500年)は教えと修行のみあって悟りが無い像法の時代。そして、教えのみあって修行と悟りのない時代を末法の世とされています。


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